クリスチャン

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これはあくまで自分の感じ方が含まれてます。世間の現実からも聖職者が生まれていただければと思います。言論の自由のためご了承を。

 

自分もクリスチャンの一人で、離れクリスチャンです (教会を離れながらも、信仰を持つクリスチャンのこと) 。

私がキリスト教の門をたたくまでは、クリスチャンや牧師を見かけると憧れてポーッとしたものです。まるでこの世の天使を見るかのようでした。そして私も当然、憧れの信者となり洗礼を受けました。純真だった頃のことw

 

教会を離れる原因に、日曜日が仕事を除けば人にもよりますが、多く聞かれるのが人間関係でしょう。次に日曜日に休みたい。説教終了後のクリスチャン達の交わりや奉仕活動が嫌でしょうか。束縛感が確かにありました。そして、教会組織の不完全さと不信感などでしょう。

 

キリスト教が世界で普及する理由

 

※馬小屋で有色で生まれ、質素な生活をし、この世の肉体と精神の地獄をあえて味わった唯一の神(子)の姿は人々の心を打ち砕いた。
これは世界中の人々の共感を得た。その上、最も世界を魅了したのが


※懺悔でどんな罪からも赦され救われる。
これが普及した要因であり素晴らしい真実でしょう。

 

先生とは誰か

 

勘違いは、牧師・神父を先生と思うことです。はっきり言いますと先生でも師でもないです。相手が年上になると余計に圧力に負けそうですよね。特に未成年はそうでしょう。されど信者は牧師・神父の弟子でもありません。ここを間違えると希に酷い目に遭います。その意味はわかるでしょう。

神・キリストが話してる言葉をわかりやすく説く役目である、牧師・神父・伝道師など、水先案内人そして解説者と捉えるのが正しいのです。

 

そして私たち信者と同じ立場で同じ人間同士です。そして、私たちと同じ罪人です。従うのは聖書の教えであり、相手の私的な欲求などに従うべきではありません。そんな義理などあるはずもありません。もちろん、奉仕活動も強制はできないですから。命令権もありません。私たちは神を信仰するのであり、人間宗教・信仰をしてるわけではありません。

 

信者自身が活動したい気持ちに従ってください。従わないからと冷たくするようなら牧師・神父が間違ってますよね。その教会は離れたほうが良いでしょう。あくまで平等に、誰にでも親切にしてあげてください。これは学校も同じこと。教育の範囲を従ってください。学校などで先生と呼ぶだけは問題はありません。

先生とは、"イエス・キリスト"だけです。

 

献金

 

毎月の収入十分の一(什一献金)も全額、難民や世のために寄付すれば良いと思います。もちろん献金は強制ではありません。牧師に、「献金の行いはその人の信仰の証」といわれますが…….。それ言われると、その教会に通えにくくなりますよね(汗)。


私は子供の頃から教会に通っていますが、什一献金も社会人になって一時行っていました。教会は経費を計上しないのが一般。だから何に遣われるとかは明確には信者にはわからないことです。それはまさか牧師の生活費にも遣われるとは予想もしてなかった。牧師の生活費に充てないでほしかった。そのつもりで献金はしてはいません。

 

教会建築も信者からの献金を募って建てているのが普通です。牧師の身銭で建てていただきたいですね。けち臭くなる話ですが、その土地まで献金で購入したか知りませんが、権利は牧師の物だけ(または、キリスト教団体?)になるわけですよね。財産を手に入れることは、既にビジネスとしか思えないです。


聖書に牧師という職業で稼ぎなさいとは書いてないはず。職業自体は悪いことではなく、伝道や説教とはビジネスではないもっと尊いものと思っています。説教だからこそ、教会の高潔な奉仕活動だと思うんですが…。 

 

祈ると言われる

 

牧師、クリスチャンに悩みを相談すると、必ずといえるほど「あなたのために祈らせていただきます」と言われ、場合には即座に終わります。一見問題はないとみる方もいるでしょう?いいえ(大きな声で牧師が祈るとか(いや違うでしょ))、そんな単純ではないんですね。すでに決まり文句や逃げに捉えられても仕方のない言葉だと思います。


祈る?それだけでしょうか?ただの、善意の押し売りにしか聞こえません。なにもあなたに祈ってもらいたいのではなく、自分で祈れますからね! 行動し協力して欲しいと皆さん願ったわけです。もし、人のためを思うなら、何も言わず行動に移すでしょう。

助ける力も余裕もないのなら、それをしっかり伝えるべき。断る代名詞に”祈り”を使ってはいけないと思います。


確かに、祈ってもらえることは素晴らしいです、祈りは神に願いを捧げ、神が叶えることもあります。ならば、相手に祈るからと言わないで黙って祈ってあげてください。お手紙の定形文ではありません。

 

余談>

※昔、母が入院中、重篤で血液が不足と言うことで、私が人にお願いをして回った。通っていたキリスト教会の伝道師だったか、輸血が必要なので協力して欲しいと電話で頼んだ。すると、電話を取り次いだのは別の方。すると奥の方からやってきた伝道師の声「なんや今頃……と声が……。」伝道師「今は誰もいないし、協力は出来ないから、母のために祈らせて貰いますから」とだけ言い残し、事務的に言われ電話は一方的に切られた。

せめて伝道師が誰かに尋ねてみるなど行動して欲しかったんですが……本当に傷ついた事実があります。もちろん、強制では無くて親切心を期待した自分がいます。その期待は叶いませんでしたが。愚痴になるかと思いますお聞き苦しくて許しください。

祈らせて貰うは紙一重、それだけ冷たい言葉なのだと改めて思います。

 

※これはヤフーニュースからの抜粋になりますが、ロシアとウクライナの戦争でマウナポリの現実として取り上げられた話です。

 『トゥゾフさん:「皆さんは“God bless Ukraine”と祈るのはやめて下さい。現実的な支援をして下さい。祈っても無駄なのです。祈っただけでは、子どもの命を救うことも、高齢者に食事を提供することもできない」』

(「グッド!モーニング」2022年4月5日放送分より)
ともあるように、祈らせて貰う”口だけおべんちゃら”はキリスト教徒も今後やめませんか。

 

信者の現状とは

 

どんな重罪を犯そうとも、キリストに罪を悔い改めれば赦され天国へ行けるのです。

それは原罪を持った人類にとっては何より素晴らしい恵みなのです。そうでなければ、誰一人救われないでしょう。

デメリットもあります

それは、甘ちゃんになる信者がかなりいること。それは自分のことを含めます。

映画で、『ダ・ヴィンチ・コード』がありますが、その中である悪の信者が、殺しを犯しては神に幾度も懺悔する場面は、クリスチャンを皮肉ってるなと思いました。そう、この場合は殺人ですが、性犯罪をほしいままに犯す信者も実際多く見受けられてます。

(そのほかのダ・ヴィンチ・コードの内容については、全くの空想でしかなく、あり得ない内容でしたが)

なぜ神様を信仰する者が、平気で犯罪を犯せるかは、”懺悔で怖いものがない” ”やった者勝ち”という気持ちに他ならないでしょう。それ以外の理由が見つからない。

この世で欲望を満たし、それを懺悔すれば赦され天国まで手に入れられる。これ以上でもこれ以下でもないと思います。

(※映画『ブラザーサン・シスタームーン』で、フランチェスコに対し元親友パオロが「君は調子よすぎるじゃないか! 僕の持っていないお金も名誉も女も手にし、ある晴れた日、蝶々を捕まえるように神様まで捕まえたんだからな!」と叫ぶ言葉を思い起こさせます……)

 

どんな罪を犯そうと、悔い改めれば救われるから、何も無理して善行しなくても、適当に気楽に生活しとけば良いんだし、祈れば救われるんだから(^^;的に思うのが人間。お互い様ですが、そういった”甘ちゃん”と付き合うわけですからストレスは半端ないではずです。それでもその相手を愛するクリスチャンは本物でしょう。

 

ちなみに私が尊敬してるのは、キリストを始め、国民のために命さえ惜しまなかった”昭和天皇”です。その理由ですが、マッカーサーは、戦争責任を天皇はきっと自分の命を惜しみ、国民に責任転嫁するだろうと踏んでいたが、天皇「望むなら自分の首を捧げても良い」との言葉に衝撃を貰ったマッカーサーはそれ以降、天皇に敬服の感情を抱いたそうです。この逸話が感情を揺さぶられました。

(噂で申し訳ないですが、天皇家は毎日欠かさず賛美歌を歌ってると聞きましたが、人間宣言はもしかすると、聖書の神以外を神とはしてはいけないという御言葉を守られたのでしょうか?)

 

※私が勝手に思うこと >それは、無宗教の人がいるとして、天に宝を積むことさえ知らず、見返りを全く望むことなく善行を施す人がいるとしたら、その方こそ本物の善人・聖人だと考えるのです。

 

※人を信じないで良いと思います>つまりは、わざと騙してる人に騙されてあげること。きっと騙した人は、知って騙されていたことを知り、自分の頭に燃える炭火を積むでしょう。恥を痛み愚かな自分を改めるのです。右の頬を殴られたら左をも向けなさい。

上着を奪う者には下着をも与えなさい。他人を信じるのではなく、愛するのですね。

そう、聖書は教えてる気がします。

 

天国と地獄

 

※自殺とは >

すべての宗教なのかはわかりませんが、宗教でよく聞かれることが、

“自殺は地獄に逝く”ですね。これには疑問に思っています。それだけ辛かったからやむを得ないではないか。苦しみ抜いた自殺者だからこそ、神様はねぎらい、天国に導くべきじゃないのか! とさえ思っていたのです。

 

自分としては、キリストに罪を悔い改めれば赦されるのだから、自殺で死んでしまっては悔い改めはできない。だから救われないと長年思っていたわけです。

でも、クリスチャンは、自殺も地獄に逝くことはないと、ネット伝導牧師の説教で最近知ることができました。これは長い間教会の説教では聴いたことはないのです。私だけでしょうか。

キリストを信じたことによって救われる。何者にもその恵みは阻害されないわけですね。そうだったんだと荷が下りた感じがしました。まるで自殺願望に聞こえますねw そのくらい辛い人生は、誰も同じかも知れませんが。とはいえ、貴重な人生です。自殺逃げはしないでくださいね。

 

※一部人間の考え >

漫画のタイトルは忘れましたが、かなりの斜め上からの目線で語ったストーリー一部の内容ですが、「天国とは、神に永遠ひれ伏す抑圧された地獄だ」(正確ではないが、このような語り)だと。
これにはショックも受け、なるほど、こういった考えも現実として一部の人にはあるのかと、決して見逃せないでいました。これは、間違った心の弱い人間の考えとも捉えることができますが。


自分としては、この世が一般論生き地獄であるのに、救われた人間があの世まで地獄があるなんて許されるだろうか疑問ですね。人知を超越した頭脳の持ち主であられる神様が、悔い改めなかった悪人を除いて、愛する我が子である人間の魂を、あの世まで苦しめるなどあり得ないからです。天国とは、楽園なのです。


エデンがあの世で復活した世界であるはず。神だと恐怖に駆られ、気を遣いストレスを感じるなど天国ではあってはならないからです。魂は生まれ変わり、人をなめるとか、バカにするとか、えこひいきに差別とか、その精神自体が存在しないからです。これが生まれ変わる魂の姿ではないでしょうか。そう決めつけた私の考えですが、そう思われませんか?


当たり前ながら、天国には、悪巧みなどの罪、貪欲も病気怪我、災難、恐怖、様々のストレス、退屈も、気疲れもなくて、これはこの世だけのことで完了するのだと信じたい。

 

 

※伝導と魂の行く末 >

キリスト伝道が伝わらなかった昔の地域、もし善人なかたがおられ、そのかたが亡くなった場合、やはりキリストを信じないという理由で地獄に逝くでしょうか?
私は違うだろうと思います。
知ることができなかった大きな理由があったからです。きっと天国に行くと思ってます。

また、現代でキリストを信じていなかった善人がいるとしたらどうでしょうか?偶像まで崇拝していたら?
信じなかっただけで神様は地獄へ突き落とすのでしょうか?

悪人も同様に、永遠の地獄で火で焼かれ続けるのでしょうか?

 

希望です。地獄に逝くかもしれない――しかし愛の神様は、そのうちに救って天国に住まわせないでしょうか?

確かにそのことについては聖書からはわかりません。
もしかして、それも神様の御心であって、あえて書かれてないだけで人間を試されてるのではないのですか?
"罪を憎んで人を憎まず" これは心から救われるような名言です。

 

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Cross

世間の目から

 


各宗教、キリスト教も税金を課すべきだと思います。対象が献金になるでしょう。それは、金銭目当ての宗教を防ぐことになります。貧しい困っている人たちに献金を渡してるかもしれませんが、豪華な建物が必要でしょうか?豪勢な暮らしをしてる教祖(?)説教者(水先案内人・解説者)に疑問を持たず政治はスルーしてる現状はおかしい。宗教関係以外の誰しもが不満を抱いてる事実。


世界を見ましょう政治家たち。献金を何に遣われてるかをしっかりと調査するべきです。困っている人に施してる確認こそ、宗教非課税の意味を持ちますね。

 

全額を慈善事業寄付とするならある程度の減額も許されるでしょう。ただの闇雲に”宗教法人”を【原則非課税】丸投げは政治の無責任です。

今まで、課税を願い出る教会を知りません。なぜ、民が宗教非課税の不満を訴えてる現実なのに、なお、教会は非課税の言葉に甘んじるのでしょうか?余計なお世話でしょうが。

そして、

数々のキリスト教の派閥枝分かれっていったい何なんでしょうか?意味不明です。

各教派でまるでビジネスで独立でもするかのよう。何を専売特許としてるのでしょうか?未信者から信者までがどこを信じれば良いのかと、混乱を招き誤解される原因になっています。

※迷ったら、”三位一体に基づいた信仰の教会と覚えてください。

カソリックプロテスタントも完璧ではないんです。教会も認めてるはずです。

 

奇跡を行う意味は

 

聖書は預言者により多少の表現が違うものがあります。イエスの奇跡も数々記されています。その中に、水の上を歩くという極端な表現もありますが、さもすればこれは後付けとも考えられますね。イエスは奇跡などはなるべくなら起こしたくは無かったと思われます。

「あなたはわたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。(ヨハネによる福音書20章29節)」とあるように、奇跡を見せなければ、人は神を信じない。それは救われないことを意味します。それを回避するため、やむを得ず奇跡を行わざるを得なかったと考えれます。


理想教会


その理想に近いキリスト教会が存在するのです。それは『無教会』この無教会が普及してほしいと讃えるその特徴が>


献金なし”
“義式(洗礼、聖餐式、異言の言葉など)にとらわれない”
“教会建築がない”
“職業牧師がいない”


そして、カソリックでは「聖職者」(「教役者」)と信者には格差があるのですが、無教会ではその格差はありません。信者みんなが聖職者なのです。

キリスト教では一番進歩してると自分は思います。無教会拡散しないといけませんね。しかし残念ながら普及していないのが実情のようです。

詳しい理由は不明ですが、青空教会なので、建物は必要ではなく、山や広場でテントでも良いのです。資金的無理はないと思うのですが……。

もしかすれば、この小さいまま維持されるのが最善かもしれないですね。組織化すれば、同じく不完全な教会に成り下がるかもしれないから。

 

でも、現在では教会代わりとなる、インターネットによる説教も存在するので素晴らしい。確かに教会に集まり、人々と交わりの関係を維持するのは大切。ただ、それが苦痛になる人もおられます。無理は絶対しないことも大切だと思いますね。

献金に関しては、周りの人間の圧力もないため、献金は自由意志です。什一献金は難民や慈善事業に毎月寄付できますよね。寄付金への高い税金(事務費)という問題に心配はありますが……。

今後はメタバースも普及され、VR空間での教会参加に訪れることになると思います。

(お勧めラジオ伝道:FEBC 1566kHz AM(NW)放送またはインターネット視聴で!)

 

お墓と遺骨

 

キリスト教でも、信者が亡くなるとお墓を建てます。それは十字架が一般。
ただし、勘違いしていけないのが、墓は勿論ですが、遺骨にも霊は宿りません。

それなのになぜお墓を建てて遺骨を埋めるかですが、おそらく遺骨を処分する行為に問題があるからでしょう。住民近辺に気安く死骸である遺骨を廃られたら気持ちの良いモノではありません。法律でも、遺体遺棄に当たります。そのため墓地を設置し集約するわけだと思います。

 


ほかに、遺族がかつての愛する人の亡骸を、形見のように思いやるからでしょう。
そのため、当然ながら粗末な扱いはしたくない。これらにつきると思います。
たしかに、この方法が高等な人間らしい行いだといえるでしょう。物理的に、死骸は土や石に還るわけです。


余談ですが、お墓、遺骨の傍で幽霊を見た話はよく聞かれますね。キリスト教ではその正体は悪霊とされています。人を惑わし悪魔の思うように洗脳するのです。面白いことに、キリストを信仰する者は、幽霊的な現象をほとんど見なくなるようです。それには神を信じる者にはかなわないと悪魔も一目置いてるからで在り、神が悪魔から守られてるからではないでしょうか。

亡骸にはその方の霊は宿りません。その霊は黄泉にいるのです。
そして最後の審判で、天に召されるわけです。

 

偶像崇拝

 

メディアの影響でしょう、イメージに、十字架に向かって手を組み頭を垂れ祈りを捧げて神様にかしこまってるようですね。違うんです。決して十字架に祈ってるわけでも神としてるわけではありません。

十字架はキリスト教の象徴という意味で、霊的な者は存在しません。かつてのキリシタン迫害があり、踏み絵というものがありました。でも、信者であっても踏み絵のキリストを踏んでも罪ではないんですよ。ただの彫り物ですから。

(例えば、聖書をわざと破り捨てたらどうか?宗教によっては聖典なる書物を破ると死に値する的な厳罰があることも聞きます。はい、キリスト教では罪にはなりません。聖書に言葉を書き加えたり、削除するのが罪なんです)

予想ですが、

踏み絵でキリシタンを証明させて死刑にするという事がありましたが、私なら踏みつけます。なぜ迷いなくそれができるかと言いますと、偶像に神は宿らないと聖書に示されてるからです。もし宿るなら悪魔しかいない。そして、命を全うするため、そのときに嘘をつき後に神にその嘘を改め祈るのです。それで救われます。無理をするのが正しいことではない。
命も大切だから神は当然理解します。

なぜキリシタンは踏まなかったのか。”嘘をつきたくはなかった“この踏み絵が偶像で神ではないことなど分かっていた。しかし、それではない。信じていないなどと嘘を言いたくない。私は神を信じている。そのことに嘘をつきたくはない。だから踏んで、死刑を甘んじて受けたのでしょう。それが尊い。しかし偶像を踏んでも罪ではなく正しかったわけです。

ですので、トイレであろうとどの場所であろうと、周りどこにでもおられる神様に祈れるわけです。

 

キリスト教では天使崇拝は偶像崇拝で罪とされてます。そして、マリア様はカソリックでは崇敬とされます。しかし、カソリックプロテスタントもマリア様を神としていません。マリア様は人間であり、神にキリストの出産として選ばれたお方です。


キリスト教は ※三位一体(父と子と聖霊)による信仰です。

 

ガリレオ・ガリレイ 『聖書は正しくても、それを解釈する人間に誤りが生じる』


例えば、『神の国と神の義をまず第一に求めなさい』を教会(建物)を神の国だと解釈するといった、もうこれは偶像崇拝になるだろうと思います。

十字軍の戦いもそう、神様は争いを求めていないが、人間が勝手な聖書の解釈をしていた結果だと思います。

 

 

異星人

 

キリスト教が地球外生命がいて困る理由>

 

※地球の人間は特別な存在で創造した。

※創造の順番は地球が最初。

 

アダムとイヴが原罪をもつことで、地球外の生命まで原罪を持つことになる。それは地球の人類のことだが関係のない、地球外生命まで罰することに (罪という地獄への道)。最後の審判は火で世界は滅亡するうえ、地球外生命までも滅亡することとなる。それらが不条理。


人類を救うため十字架上で死なれたキリスト。当然それを地球外生命は知るよしもない。キリストの購いの業が矛盾。

 

UFO現象>


「嘘」「幻覚」「自然現象」「悪霊の仕業」


中でも悪魔の仕業は地球外文明を信じ込ませば、人類のためのキリストの業が軽視。その狙いが悪魔にある。

 

個人は、UFOは人類が開発した未公開の飛行機ではないかと思います。
地球外生命はいるだろうと思いますが、たとえば、地球外生命も罪を犯すかもしれない。そこには同じキリストが現れ、購いの業がその惑星にもなされるのではないか?聖書には、我々という言葉がありますが、地球外の同じ神(御子)のことではと考えます。

希望は原罪を持たない知的生命がいると素晴らしいですよね。

 

余談>

話のつながりでここに掲載するか考えましたが、これも事実なので隠さず載せることに。

2022年3月21日午前11時56分に神戸碇山から撮影した写真にUAP(未確認空中現象)なる現象が2機映り込んでいました。写真中央の部分を拡大したのが下の写真です。一瞬の姿が偶然映ったようです。このように写真や映像に未確認の物体が映り込むのは確かにあることですね。正体はわかりません。

IKARI MOUNTAIN

Middle Zoom

UAP UP